2005年05月17日

◆絵本とビール

『窓5月号』(ナウカ)が届く。この号では,最近モスクワのカフェ&バーが児童文化発信の場として重要な役割を演じていることを紹介した。モスクワのカフェ&クラブでロシアの伝統的なクリスマス劇ヴェルテプが上演されていること,クラブで夜中に日本のアニメーションが上映されていること。

モスクワのカフェバーに併設された書店では,人文関係の書籍が充実しているだけでなく,児童文学の名著も揃っている。ロシアでは2002年頃から〈イノストランカ〉,〈NLO〉,〈オギ〉など名著出版で定評のある出版社が,次々に児童書シリーズを展開し,新しいムーヴメントを作りだしつつある。〈NLO〉から2003年に出版された『むかしむかしあるところに犬がいました』は,イリーナ・ピヴォヴァロワの詩をモスクワ・コンセプチュアリズム出身のアーティスト,ヴィクトル・ピヴォヴァロフのイラストが彩る絵本の待望の復刊だったし,〈オギ〉の児童書シリーズから出版されたコンスンタンチン・セルギエンコの最高傑作『さようなら,谷よ』(1979)は,個人的には,この数年で一番感動した本の一冊だった。

(写真は上から,ブックカフェ《ビリングア》,『さようなら,谷よ』表紙,『むかしむかしあるところに犬がいました』表紙)

2005年05月04日

◆ヤング・アダム

アレグザンダー・トロッキの『ヤング・アダム』(浜野アキオ訳,河出書房新社,2005年)は,平底荷舟に住みこみで働く若い労働者ジョーを主人公に据えて,彼の目に映る閉塞感漂うスコットランドの港町と住人たちの鬱屈した心理を描きだした小説である。半裸の女性の死体がジョーの足元に流れ着くシーンで始まるこの作品は,「殺人」や誘惑という扇情的なストーリー展開で,ミステリーやポルノグラフィーの要素もそなえている。だがこの作品の魅力は,自他を見つめる主人公のまなざしの圧倒的な存在感であり,実存的な心理小説としての側面にある。

グラスゴーとエディンバラの暗い沿岸を小型舟で移動し,どこへ向かうか,夜毎どの岸辺に停泊するかを他人任せにして生活する主人公は,人生においても,流れに身を委ねて数々の情事や殺人事件に巻きこまれる。そこには衝動や暴力の熱風はない。情事への過程で,あるいは事件が終わったその後で,水の底を見通すようなまなざしを自分や世界に注ぐジョーの意識の重さが,物語の陰鬱な基調となっているからだ。個々の事件の色彩は,事件を見つめるジョーのまなざしのなかで元の色を失い,彼の内面世界という水の中に一様に沈んでいく。

しかしジョーの冷徹な心の目は,しばしば不意に瞬きする。主人公は,世界を見つめる醒めた主体としての自己と,なにかに「見られる」受動的な自己とに引き裂かれ,その狭間を揺れ動くうちに,一度沈めたはずの思い出が,半裸の死体のように心の水面に浮かびあがってくる…… 

「語るべき何かが過去から自分を見ていると思える瞬間(とき)がある--通りを歩いていると,窓の背後にだれかがいてこちらを眺めているといった具合にそいつは外を見ているのだ。過去の時間,過去の行為が薄気味の悪い孤立性を獲得する。それらとそれらを回想する自分との間にもはや連続性は存在しない。」(本書4頁・浜野訳)

「わたしとは,見ている〈わたし〉なのか,あるいは見られている像なのか,行為を遂行した男なのか,あるいは行為について思考する男なのか,俺は問い尋ねたりしない。言葉それ自体が使い手の意図を裏切るような構造になっていることを俺は知っているのだから。」(5頁・同上)

トロッキは1925年グラスゴーで,イタリア人の中産階級の家に生まれた。グラスゴー大学で文学と哲学を学び,やがてパリに渡って文芸雑誌『マーリン』を創刊し,ベケットやジュネ,イヨネスコ,ネルーダ,ヘンリー・ミラーを紹介する一方で,雑誌のパトロン出版社の要求に応えてペンネームで数冊のポルノグラフィーを執筆する。『ヤング・アダム』もフランシス・レンゲル名で1954年に出版されベストセラーとなったが,その後,ポルノ的要素を取り除いた本来の形で1960年に再出版した。

1956年にアメリカに渡り,ビートニクたちと交流。1961年に発表したドラッグ小説『カインの書』は,ノーマン・メイラーやベケットらに激賞された。未成年への麻薬売買で逮捕されたのを機にイギリスに戻り,様々な文化運動に携るが,1984年に肺の悪性腫瘍で世を去った。スコットランドのアウトロー文学の旗手として,また同時代の作家,芸術家との交流や文化運動の観点からも興味深い。

2005年04月25日

◆暢気眼鏡

新学期が始まって2週間。授業の準備と研究で飛ぶように過ぎていった4月の息抜きは,何冊かの小説を読んだことと,小羊を見に行ったことだった。

尾崎一雄(1899-1983)の『暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇』(岩波文庫)を偶然手に取った。小田原の神官の家系出身で志賀直哉を師と仰ぐ尾崎一雄は,1931(昭和6)年に年若の妻をめとり,このどこか抜けている浮世離れした奥さんとの明るい貧乏暮らしを描いた私小説的な短編『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞した。妻が風呂桶を安く買ってきたはいいが,手狭な貸家住まいで置く場所が無く,大家や巡査の目を気にしながら,玄関や裏庭で風呂に入る話,電気をとめられて真っ暗な部屋の中でご飯を食べているうちに,その状況がおかしくなってきて夫婦で笑いだす話など,昔のテレビドラマにも似たおかしみとリズム感がある。次はこの奥さんをモデルにした小説『芳兵衛物語』を読んでみようと思う。

小羊を見に牧場に行った。小羊はあまりに穏やかで頼りなげで従順で,神話的な雰囲気をたたえていた。聖書が羊と羊飼いのたとえ話にあふれているのも頷ける。ストレスをためないためには,短い間でもいいから目を閉じて森や海など自分の好きな美しい風景を思い浮かべるといいと心理学者の友人が言っていた。当分は羊のほほえみを思い浮かべることになりそうだ。

2005年03月17日

◆奥さんは狐

中国の怪異譚を集めた古典,蒲松齢(1640‐1715)の『聊斎志異』(立間祥介訳,岩波文庫,上・下)を,最近ようやく手に取った。昨年の授業で翻訳文学の話(ロシアでは中国の古典が世界に先駆けて翻訳されたという話)になった時,中国からの留学生達も皆「大好き!」と口を揃えた作品だが,日本には現代の若者が面白がって読む古典というのはあるだろうか。『聊斎志異』では,人間の世界に,異界の住人である狐,幽鬼,仙女たちがごく自然な形で紛れこみ,気がつけば妻が狐だったり,死後も自分が生きていたりと,不思議なはずの出来事がありふれたこととして語られる。この世とあの世が渾然一体となった夢見心地な時空間が魅力だが,人間や幽鬼の情愛や心の機微が率直かつ切々と綴られているのも心の琴線に触れる。肩の凝らない思わず笑ってしまうような短篇あり,弾けた想像力に「物語」というものの面白さを再認識する作品あり,情に満ちた男女の会話がほろっとさせる作品ありで,読後感がいい。翻訳も読みやすく味わい深い。岩波文庫版は全491編から92編を精選した抄訳なので,次は完訳本を読んでみたい。

2005年01月21日

◆瞼に浮かぶ都市

国書刊行会の《新しい台湾の文学》シリーズはこれから全部読んでみたい。エスニシティとジェンダーを軸に客家(ハッカ)の作家たちの短編小説を集めた『客家の女たち』(松浦恆雄監訳,2002年)も面白かったが,現代台湾文学短編集『台北ストーリー』(山口守編訳,1999年)を読んで,物語を読む喜びと楽しさを堪能した。世界中の本を読み世界中をめぐり歩くために1万年を手に入れようとする男の話(張系国(チャン・シークオ)「ノクターン」),時空を自在に旅して自分の死後の評価を見てしまう「将軍の記念碑」(張大春,チャン・ターチュン),アメリカの台湾化という架空の世界をつうじて台湾の現状を揶揄した平路(ピン・ルー)の「奇跡の台湾」も小気味よい。都市に生きる人々の生態を描いた黄凡(ホアン・ファン)や朱天文(チュー・ティエンウェン)の短篇小説は,読後いつまでも余韻を残す白昼夢のような味わい。これはおすすめの1冊。

急ぎの仕事のために,夜,《ハウルの動く城》を見に行く。来月の『美術手帖』(2月17日発売号)はアート・アニメーション特集。ロシアやチェコのアニメも紹介される予定。お楽しみに。

今年度の千葉大学ベストティーチャー賞を受賞しました。励みになります。どうも有難うございました。

2004年10月24日

◆ジャンルとの戯れ

ボリス・アクーニン『堕ちた天使 アザゼル』沼野恭子訳(作品社,2001年)は,ロシアで空前のベストセラーになった推理小説「エラスト・ファンドーリンの冒険シリーズ」の第一作で,1998年に発表されて以来さまざまな言語に翻訳されてきた。1876年のモスクワ,ロンドン,ペテルブルクを舞台に青年警察官ファンドーリンが国際陰謀組織を相手どって活躍するというストーリーで,帝政ロシアの風俗も魅力的に描かれている。なにより文学者の書いた探偵小説という感じがするのが面白い。アクーニンというのはペンネームで,作者のグリゴリー・チハルチシヴィリは日本文学研究に長年打ちこみ,三島由紀夫から島田雅彦にいたるまでさまざまな日本文学をロシアで紹介してきた。この推理小説にも作者の文学研究者的な実験精神が感じられる。たとえば物語のクライマックスがどこか既視感を漂わせているのも,この作品が既存の推理小説の型やプロットを用いながらそれをどう破っていくかという試みとして書かれたからでもあるだろう。ジャンルと戯れるというアクーニンの姿勢は,チェーホフの戯曲『かもめ』をパロディ化した同名の作品に受けつがれていくことになる。

若桑みどり『お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(ちくま新書,2003年)は,筆者が女子大でジェンダーを教えるにあたって考えたこと,学生とのやりとり,授業内容が詳しくまとめられていて,自分の専門分野を一般の学生にどう教えるかという好例としても参考になった。

2004年10月21日

◆秋の夜長

最近読んで面白かったもの。中国朝鮮族の現代作家石華の短編小説は衝撃だった。現代社会の闇と地方の風俗を織りまぜて描きだす石華の作品は,カフカや不条理文学につながる越境性を漂わせてもいれば,むせかえるような土地の香も感じさせるユニークな世界。中国朝鮮文学史をまとめるために中国から留学している大学院生は,授業やレポートでいつも最新の文学を紹介してくれる。夏休みに石華の短篇作品を40編近く日本語に翻訳したとのこと。日本で出版されたらきっと話題になるだろう。

卒論指導のために梨木香歩の『裏庭』を読む。現実と幻想が混じり合うような日常を描いた『からくりからくさ』とは一風違って,現実とファンタジーの世界が,独立した2つの世界として活字も変えて交互に描かれる。現実とファンタジーを行き来する子供の物語はフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』,ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』など枚挙にいとまがないが,『裏庭』の現代的な生々しさは,家族関係に悩む不器用な親子の心情をかなり詳しく等身大に書いているところにある。

正高信男著『ケータイを持ったサル』(中公新書,2003年)は,サルの行動の研究者である著者が,日本人の思考やコミュニケーションがサル的になっていることを論じて話題を呼んだ著作。若者が靴のかかとを踏んで歩くのは家の外でもスリッパ感覚でいたいからだという「家のなか主義」を唱えている。タイトルはセンセーショナルだが,若者の行動の変化を日本の生活スタイルや家族関係の変化と関連づけて論じた説得力のある著作だった。

アンドレイ・ベールイの自伝的小説『Kreshenyj kitaets(洗礼を受けた中国人)』読了。『ペテルブルク』や『モスクワ』とは違って文学作品としては弱いが,ベールイの世界を理解するためには欠かせない資料。1890年頃のロシアの一般家庭でアラスカやカムチャッカをめぐってどのような会話がされていたかという記述を読んで,アメリカへのアラスカ譲渡体験がその後のロシアにおいて国土への意識をどう変えたか,それが文学作品にどのように表れているかという問題を調べてみると面白いかもしれないと思った。

2004年10月20日

◆ソラリスと捜し屋

10月13日,スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』の新訳出版(沼野充義訳,国書刊行会,2004年)を記念して開かれた沼野充義先生と巽孝之先生のトークショーを聞きに行く。この名作がポーランド語の原文から日本語に訳されるのは初めてのこと。強い磁場で一気に幻惑に誘う『ソラリス』の世界は,物語,文学の力を見せつけてくれる。会場ではレムの貴重なインタビュー映像も上映され,レムの話しぶりや表情を見るうちに,言葉だけを読んでいても分かりづらい彼の考え方のスタイルや,世界観の片鱗が感じられたような気がした。

10月16日,ロシアでロシア人の俳優を使って映画を撮りつづけている佐々木久実さんの映画上映会が千駄ヶ谷のカフェで開かれた。依頼人のために出口と入口を見つける男の非日常を描いた《捜し屋》(Iskatel')は,命を賭して危険かつきわめて不可解な仕事をしている男が主人公で,アンドレイ・タルコフスキーの映画《ストーカー》にも通じている。マッチ箱を倒したり叩いたり押しのけたりと何かに取り憑かれたように遊び続ける二人の男を描いた短篇作品をはじめ,佐々木さんの映画はロシアの不条理作家ダニイル・ハルムスの作品のように奇妙でしかも歯切れの良さできわだっている。

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