アレグザンダー・トロッキの『ヤング・アダム』(浜野アキオ訳,河出書房新社,2005年)は,平底荷舟に住みこみで働く若い労働者ジョーを主人公に据えて,彼の目に映る閉塞感漂うスコットランドの港町と住人たちの鬱屈した心理を描きだした小説である。半裸の女性の死体がジョーの足元に流れ着くシーンで始まるこの作品は,「殺人」や誘惑という扇情的なストーリー展開で,ミステリーやポルノグラフィーの要素もそなえている。だがこの作品の魅力は,自他を見つめる主人公のまなざしの圧倒的な存在感であり,実存的な心理小説としての側面にある。
グラスゴーとエディンバラの暗い沿岸を小型舟で移動し,どこへ向かうか,夜毎どの岸辺に停泊するかを他人任せにして生活する主人公は,人生においても,流れに身を委ねて数々の情事や殺人事件に巻きこまれる。そこには衝動や暴力の熱風はない。情事への過程で,あるいは事件が終わったその後で,水の底を見通すようなまなざしを自分や世界に注ぐジョーの意識の重さが,物語の陰鬱な基調となっているからだ。個々の事件の色彩は,事件を見つめるジョーのまなざしのなかで元の色を失い,彼の内面世界という水の中に一様に沈んでいく。
しかしジョーの冷徹な心の目は,しばしば不意に瞬きする。主人公は,世界を見つめる醒めた主体としての自己と,なにかに「見られる」受動的な自己とに引き裂かれ,その狭間を揺れ動くうちに,一度沈めたはずの思い出が,半裸の死体のように心の水面に浮かびあがってくる……
「語るべき何かが過去から自分を見ていると思える瞬間(とき)がある--通りを歩いていると,窓の背後にだれかがいてこちらを眺めているといった具合にそいつは外を見ているのだ。過去の時間,過去の行為が薄気味の悪い孤立性を獲得する。それらとそれらを回想する自分との間にもはや連続性は存在しない。」(本書4頁・浜野訳)
「わたしとは,見ている〈わたし〉なのか,あるいは見られている像なのか,行為を遂行した男なのか,あるいは行為について思考する男なのか,俺は問い尋ねたりしない。言葉それ自体が使い手の意図を裏切るような構造になっていることを俺は知っているのだから。」(5頁・同上)
トロッキは1925年グラスゴーで,イタリア人の中産階級の家に生まれた。グラスゴー大学で文学と哲学を学び,やがてパリに渡って文芸雑誌『マーリン』を創刊し,ベケットやジュネ,イヨネスコ,ネルーダ,ヘンリー・ミラーを紹介する一方で,雑誌のパトロン出版社の要求に応えてペンネームで数冊のポルノグラフィーを執筆する。『ヤング・アダム』もフランシス・レンゲル名で1954年に出版されベストセラーとなったが,その後,ポルノ的要素を取り除いた本来の形で1960年に再出版した。
1956年にアメリカに渡り,ビートニクたちと交流。1961年に発表したドラッグ小説『カインの書』は,ノーマン・メイラーやベケットらに激賞された。未成年への麻薬売買で逮捕されたのを機にイギリスに戻り,様々な文化運動に携るが,1984年に肺の悪性腫瘍で世を去った。スコットランドのアウトロー文学の旗手として,また同時代の作家,芸術家との交流や文化運動の観点からも興味深い。