2008年01月27日

◆古いシルクハットから出た話

アヴィグドル・ダガン『古いシルクハットから出た話』(阿部賢一他訳,成文社)を読む。ダガンは,当時オーストリア=ハンガリー領だったフラデッツ・クラーロヴェー(現チェコ)で生まれたユダヤ系作家で,イスラエルの外交官として世界を転々としながら,チェコ語で執筆を続けた。

イタリア,日本,アイスランド,ビルマ……,各国を渡り歩く外交官たちの「華やかな」生活を,故郷を追われたユダヤ人の運命にも似た「さまよいの物語」として描きだす本書は,そのあざやかな語りの力によって,孤独と光に満ちた世界地図を幻視させる。

主人公である語り手は,外交官時代に東京の高島屋で購入し,長年愛用したという古いシルクハットから,数々の物語を取りだしてくる。シルクハットの中の黒い闇は,実に多くの登場人物が亡くなるこの小説における重要な空間である。ポーランド系ユダヤ人としての出自を隠して生きることに孤独を感じていた美貌の外交官妻は,ユダヤ系の愛人との密会先へ向かう途中で,車もろとも電車に吹き飛ばされる。死期を悟った老英国大使はオスロで自死し,愛犬があとを追う。つねに「優等生」だったオーストリア人外交官は,愛人と妻子に捨てられ衰弱して死ぬ。かれらは皆,シルクハットの中の黒い死の空間に呑みこまれるが,やがて姿を変えて手品のようにふたたび世界に飛びだしてくる。鳩,トランプ,花のように色とりどりの物語となって。

2007年11月11日

◆MOE 12月号

絵本をめぐる雑誌『MOE(モエ)』12月号に,ユーリー・バスネツォフが挿絵を描いたロシア児童文学作品について,短いコラムを掲載。
このバスネツォフの小特集は,三鷹の森ジブリ美術館で開催中のバスネツォフの『3びきのくま』展にあわせたもの。展覧会では,ロシアの小屋や森などを再現し,ロシア民話の世界を三次元で楽しめる仕掛けになっているらしい。

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2006年07月30日

◆それぞれの少女時代

今日も昨日につづいて,夕涼みをしたくなる爽やかな風。夕方になると,油蝉にかわってヒグラシが鳴きはじめる。

そんな夕方に,新刊,リュドミラ・ウリツカヤ『それぞれの少女時代』沼野恭子訳(群像社,2006年)を読み終えた。ソ連時代の少女たちを主人公にした6つの作品はゆるやかにつながっていて,それぞれの話を読み終えるたびに,「この話が一番好きだ」と思うけれど,次の話を読むとまたそう感じる。

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意地悪な妹に,近所に住む「怖いおばさん」が実のお母さんだと騙されて家出をして,夜の動物園で眠りに落ちてしまう感受性の強い女の子,憧れの教師に花束をプレゼントするために体を使ってお金を稼ぐ子,暗闇を恐がる子,誕生会になかなか友達が来なくて泣きだす子。時や国を超えて共通する少女たちの心の動きが的確に,しかもユニークなストーリーの中で描写されている。ユダヤ人差別,貧富の差,都市の住環境,ピオネール(社会主義少年少女団)の活動など,当時のソ連の社会的状況も伝わってくる。

冒頭の「他人の子」は,普遍的な叙事詩の始まりにふさわしく,神話的な空気を漂わせている。なぜか『百年の孤独』を思い出した。

この本の持つ不思議な空気感,ソ連時代の少女たちの心の綾と時代が織りなす特別なアウラのようなものに包まれて,この夏の空気が遠いソ連時代にまで続いているような気がした。

2006年06月06日

◆オネーギンの恋文

プーシキンについての授業で、マーサ・ファインズ監督の『オネーギンの恋文』を見た。細部を省略しつつも、原作をほぼ忠実に映画化している。

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時は19世紀ロシア。ペテルブルクで放蕩生活を送り、叔父の領地を相続して田園にやってくるも、無意味な人生への憂いから逃れられない青年オネーギンを、レイフ・ファインズが、オネーギンのマドンナとなるタチヤーナを、リブ・タイラーが演じている。ラストシーンのオネーギンの後ろ姿が、突然老けこんで、中年のように見えるのが切ない。

2006年06月04日

◆上田和夫『イディッシュ文化』

フランツ・カフカは,当時オーストリア・ハンガリー帝国に属していたボヘミアの首都プラハに生まれたユダヤ人だったが,周囲の環境にとけこんで生活するいわゆる同化ユダヤ人として育ち,作品もドイツ語で執筆した。後年,イディッシュ演劇と出会ったのを機にユダヤ人としての意識にめざめて,ユダヤ教やシオニズム運動に身を投じたが,一度は移住を志したパレスチナの地を踏むこともなく,プラハでの死を選ぶことになる。

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「本物の」ユダヤ人でも,ドイツ人でも,チェコ人でもない自分のアイデンティティを模索しつづけたカフカの作品には,時として,ユダヤ人の運命に寄せる共感,また,同化ユダヤ人として生きてきたことへの罪悪感がにじみでている。短編小説『判決』では,主人公の青年ゲオルク・ベンデマンは,ペテルブルクに移住した友に手紙を書きつづけるが,彼の地で苦労を重ねる友人に挫折感を抱かせないために,自分の幸福や成功について手紙でふれることができない。

「広いロシアで途方に暮れている友を彼は見た。空っぽの,すっかり略奪された店の戸口に彼は友の姿を見た。商品棚の破片や,ぼろぼろになった商品や,ぶら下がったガス灯の間に友はまだ立ち尽くしていた。」
    
ドイツ,イディッシュ文学研究者の上田和夫氏は,『判決』の主人公の青年が友人の生活を創造するこの一節は,カフカが1911年10月8日にプラハで見たイディッシュ演劇『過越しの祭の夜』のポグロム(ユダヤ人襲撃)のシーンや,同劇団の俳優イツハク・レヴィの朗読をつうじてカフカが親しんだユダヤ民族詩人ビアーリクの詩の光景と重なりあうと指摘している。  

カフカがロシアの広大な空間に幻視したのは,起こりえたはずのもう一つの人生を送る自分自身の姿だったといえるだろう。『判決』の二人の青年を隔てるボヘミアとロシアの地理的な距離は,ドイツ語を話すプラハの同化ユダヤ人として特権的に生きるカフカの現在の生活と,ユダヤ人としての苦悩,偏見を甘受しながらも「ユダヤ人らしく」生きるという,可能ではあったが実際には選ばれることのなかった人生とのあいだに横たわる断絶の比喩でもある。

上田和夫『イディッシュ文化 東欧ユダヤ人のこころの遺産』(三省堂,1996年)
イスラエル,アメリカ,旧ソ連邦,東欧,西欧(ドイツ,オーストリア)のイディッシュ文化を,「現代から過去へとさかのぼるやり方」で俯瞰。(本文の『判決』の引用は同書から)

2006年05月29日

◆アナテマ

ネオ・リアリズムの作家として出発し,のちに象徴主義的な作風に転じたレオニード・アンドレーエフ(1871-1919)の戯曲『アナテマ(悪魔)』を読んだ。

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貧しい露店を営む老いたユダヤ人ダヴィード・レイゼルのもとに悪魔が現れ,レイゼル一家を大富豪にしたのち,ふたたび一家を奈落の底に突き落とす。ダヴィードに精神的試練を与える悪魔との問答や,人民の救済にめざめるダヴィードの姿は,あきらかに聖書のイエス像をふまえている。

ロシア文学におけるユダヤ人像を調べるために読みはじめたが,読了したところで,カジミール・マレーヴィチがこのアンドレーエフの戯曲をテーマに一連の絵画を制作していることを知り,マレーヴィチの戯曲解釈に興味を持った。上にあげたのは,悪魔の奸計に陥ったダヴィードの最期を描いた一枚。アンドレーエフの特徴である「灰色の空間」の重苦しさが伝わってくる。


K. Malevich. Anatema. 1909.

2006年05月27日

◆チシコフのハルムス

3月末にロシアから船便で送った書籍小包が届いた。

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これは,レオニート・チシコフが挿絵を描いたダニイル・ハルムスの『出来事』。
プーシキンとゴーゴリが際限なく転びつづける話,6の次に7が来るのか8が来るのか分からなくなって町中をかけまわる男たちの話など,ハルムスの不条理で不気味な世界に,チシコフの奇妙な生物たちの絵がマッチしている。

この本は,モスクワのニコーリスカヤ通りにあるクラブ《ピロギ》で偶然見つけた。地下なので空気は悪いが,手頃なカフェと,文学書を集めたユニークな書店,詩の朗読会やコンサートのためのミニホールがある。クラブハウスサンドイッチをつまみにビールを飲んで何時間も過ごせるありがたい場所。


Daniil Kharms. Sluchai. [Khudozh. L. Tishkov] M.: Mir kul'tury. 1993.

2006年04月04日

◆林檎の花咲くとき

19-20世紀にかけて活躍したロシア前期象徴主義の作家ジナイーダ・ギッピウスの短編集『新しい人々』(1896)を,数日前から寝る前に読んでいる。象徴主義的な世界観で生きている人間たちをはじめて描いた作品として当時反響を呼んだ短編集で,「神秘的で不可解で不明瞭な」世界への偏向として批判も浴びたが,今読めばやはり,20世紀モダニズムの開花を予感させると同時に,19世紀らしい古めかしい香りがする。

短編集の冒頭を飾る『林檎の花咲くとき』は,息子を溺愛するあまり,自分なしでは息子が生きられないように育てあげた母親と,母を慕いつつもその仕打ちを恨む青年の物語である。青年が隣家に住む変わり者の娘に初恋をして,二人で夜明けの庭で春の息吹を感じる場面は,ちょうど日本なら今の季節,桜の花が生臭い空気のなかで花開く季節を思わせる。青年と娘は庭の暗がりで,突然「新しいほのかな香り」が漂ってくるのを感じて,一瞬の後に,それは林檎の最初の花が開いたからだと気づく。ロシア語の原文も明快かつ端麗で,まさに匂いたつような印象的な一節である。

でも,本当は,この数日入手する時間がなかったが,今,猛烈に,何か面白い日本の作家の本が読みたい。ロシア語の本を読む楽しさと,漢字の使われた縦書きの日本文学を読む楽しさは,同じ文学なのに大きく違う。うまくいえないが,どちらがより楽しいというより,楽しさの種類が違う気がする。まだ読んでいない小説で手もとにあるのは洋書だけなのに,夜中に漢字とひらがなで書かれた日本文学が無性に読みたくなり,なにかなかったかなと本棚をあさる時がしばしばある。外国文学を研究している他の日本人は,どんなふうに感じているんだろう。