2010年03月29日

◆モスクワでの事件を受けて

今朝,モスクワの地下鉄2駅で,連続テロの可能性のある爆発があり,少なくとも37人が亡くなった。

留学中,いつも心の底にあった,爆破事件とそれに伴って高まる人種差別への不安が甦る。
当時の爆破事件について以前書きかけた拙文の一部を転載してみる。

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1999年9月1日の朝,前日とはうってかわって冷えこんだモスクワを騒然とさせたのは,前夜起こった都心の地下ショッピング・モールでの爆破事件だった。死者1名,負傷者40名を出したその爆破事件が起こった数時間後に,用事で都心に出かけ,あたり一面に警官が立ち,騒然としている現場を目の当たりにした。
9月4日には,ロシア南部のダゲスタンで軍人用住居に乗りいれたトラックが爆発し,64人が死亡し130人が負傷,つづく9月9日,13日には,モスクワのアパートが連続爆破され,213名が亡くなるという非常事態が起こった。
9月16日にはロストフ県ヴォルゴドンスクのアパートが爆破され,17人が死亡,72人が負傷した。

ある昼下がりに,モスクワ中心部にあるロシア人文大学の事務室で,つけっぱなしのラジオから,アパート爆破事件の続報が伝えられたときのことはよく覚えている。それまでつとめて明るくふるまっていた人びとがいっせいに口を閉ざし,窓辺に植木鉢のならんだロシアらしいなごやかな部屋は,急に暗くかげりを帯びたようだった。そして,9月23日,一連の事件をチェチェンのテロリストの仕業とみなしたロシア政府は,チェチェンの首都グロズヌイの無差別爆撃を開始し,たった3年の「停戦」ののちに,第二次チェチェン戦争がはじまった。

町の空気は一気に重苦しくなり,一般市民の心情は,終わりのない暗い坂道を降りていくように下向きになっていった。
その一方で,戦争など我関せずという顔をした人々が,モスクワの中心部であいかわらずにぎやかな生活を続けていた。学生食堂の列に並びながら,見知らぬ学生たちの会話に耳を傾けて,その脳天気さに耳を疑ったのもこの頃が最初だった。学歴,将来,結婚,人間関係もすべて金次第という,ロシア崩壊後に勃興したニューリッチの考え方に染まった一部の人々にとっては,戦争も爆破事件も別世界の出来事であるようだった。経済力があれば徴兵も免れることができるし,いつ爆破されるか分からない地下鉄や,警備が手薄な一般のアパートに出入りすることもないからだ。

その秋,モスクワ郊外の村の文学会館で開かれた学会に出かけて,帰り道で立ち往生したことがある。一連の爆破事件と戦争開始を受けて,モスクワ市に入る道路すべてで検問が強化されたので,森を切り開いて作られた一本道の幹線道路は夜中になってもラッシュアワー以上の大混雑で,路線バスのなかで夜を明かすことになるかと思われた。

隣りあわせた60代くらいの女性は,苛立ちを抑えきれずに,「この国では今,戦争が起こっているのよ! そう,戦争が! なぜ,みんな戦争に無関心なの?」と叫びだしたが,お互いの顔も分からないほど照明を落とした車内でまばらに座っていた人々は,誰も答えようとしなかった。

彼女はその後,わたしにむかって,何時間もソ連時代の思い出を語りつづけた。「ソ連時代はこんなことはなかった。今は生活が苦しいけれど,ソ連時代にはどんなレストランにだって行けたわ。豪華な前菜,スープ,メインディッシュ,それにデザートと紅茶。わたしは,赤の広場の近くのレストランで,アイスクリームを食べるのが好きだったのよ。夢みたいに大きいアイスクリームだったわ……」。
そして時々,思い出話をとぎれさせ,「早く帰らないと,夜,外にいたら殺される」とつぶやいた。

そのころ,真っ昼間のモスクワでも,恐怖で顔をひきつらせた80代くらいの小柄な女性に,「一人で歩いていると殺されるから,そこまで一緒に歩いてほしい」と頼まれたことがあった。彼女たちの目は,もはや現実の世界ではなく,連日の事件への恐怖と生活苦のせいで増幅した妄想の世界を見ていたが,その地獄絵こそが彼女たちにとっての現実なのだった。 

当時わたしは,ペレストロイカ後に「新しい民主主義社会にふさわしい教育を」という理念で創立されたロシア人文大学に留学したばかりで,新しい生活に希望も持っていたが,暗いニュースは片時も頭を離れなかった。
移民や留学生にとって気がかりなのは,爆破事件や戦争だけでなく,その結果として必然的に高まってくる他民族排他主義である。たとえ確実な証拠がなくても,爆破事件の首謀者はチェチェンのテロリストらしいとメディアが伝えれば,一部の人びとは,恐怖心やフラストレーションのはけ口を,他民族排斥に求めるようになる。
有色人種への暴行や殺害のニュースをしばしば耳にするようになり,町ですれちがいざまに「国に帰れ」と罵声を浴びせかけられるうちに,体の芯に重い疲れがたまってきたちょうどそのころ,知られざる世界の「扉」は偶然ひらいた。現代ロシア文化の生きた世界に続く扉。それは,創作の熱気と,詩や絵に喜びや慰めを見いだす気どらない人びとに出会える場所に続く道だった。
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2010年03月28日

◆郊外へ

近所のささやかな桜の名所である水路沿いでは、もう花が水上に影を落としているというのに、春とは名ばかりの肌寒い日。
息子を連れて散歩しながら、郊外の住宅地のさまざまに意匠をこらした庭を見るうちに、最近読んだ堀江敏幸のエッセイ集『郊外へ』の一節を思いだす。

「人間の直截なドラマではなく、湿った石塀や草いきれのする丘、泥濘のつづく小道にひそむ人間の息づかいを捜し求めるささやかな旅。ヴォルコヴィッチにとって、郊外は「中断の王国」であり、「ふぞろいで、素人くさい仕事の、うまく結ばれていない物の王国」である。ひと足歩くごとに空間が伸び縮みし、閉じたり開いたり、どんな通りにも、それぞれに新しい驚きが待ち構えている。おびただしい数の「小ささ」が集まっていながら、奇妙に開かれてもいる広大な空間、「零と無限」が共存する意外性に満ちた空間、それが彼にとっての郊外なのだ。」 (堀江敏幸『郊外へ』)

私たちの郊外の町には、数年に一度の大雨の日には、付近の家に避難勧告が出されるほどの急な崖があって、風景に美しい変化を与えているが、この季節には、エーデルワイスに似た白い花で一面覆われて、旅情さえ感じさせる。

4月に庭園美術館で始まるロトチェンコ&ステパーノワ展のカタログのゲラや、ロシアの論集のゲラの校正も終わり、先日、花曇りの日に、すぐ近くに住むロシア人の友人と近所の散歩に出かけた。
千葉大学に外国人研究者としてもう2年ほど滞在している彼女は、現在育児休業中で、時々、彼女と待ち合わせて、それぞれベビーカーを押して郊外を散歩しながら、他愛ないおしゃべりをしたり、研究の打ち合わせをしたりするのも楽しい。子供たちは泣いたり眠ったり。

最初は生活するだけで疲れきっていたロシアの留学生活にも、じきに慣れたように、職場に復帰してから1ヶ月のうちに、体も気持ちも順応してきた。
新学期も保育園入園も目前で、大変なことはこれからだが、今が盛りのスズランズイセン――スノーフレークとも呼ばれる、スズランによく似た可憐な花――が散り、なぜかいつも息子がその葉を好んで触ろうとするツツジが咲くころには、この郊外にも新しい春が訪れているだろうか。

horie.jpg堀江敏幸 『郊外へ』 白水Uブックス

2010年03月23日

◆春のカフカ

コブシやモクレンが、まるでゴッホの「花咲くアーモンドの枝」のように青空に白く浮かびあがる春の日に、学生たちが巣立っていった。皆、思い思いに着飾って、幸せそうな一日。時間が足りず、全員に直接お別れを言えなかったのが心残り。Желаю Вам счастья!

そういえば、少し前に読み終わった村上春樹の『海辺のカフカ』の最終章の一節は、卒業の日に思いかえすのにふさわしい。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼は言う。「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なあり方を知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」
 (『海辺のカフカ』)

almond.jpg フィンセント・ファン・ゴッホ「花咲くアーモンドの枝」(1890)

2010年03月22日

◆『プロジェクト宮殿』書評 

artscape(アートスケープ)のサイトに、五十嵐太郎氏によるイリヤ&エミリア・カバコフ『プロジェクト宮殿』書評が掲載された。書評のリンクはこちら

また、NHKテレビ「テレビでロシア語」のテクスト(2010年3月号)で、熊野谷葉子氏が同書を紹介してくださった。

写真は数年前、エッセンに設置されている「プロジェクト宮殿」を取材した時に写したもので、「夜の町をまるごと照らす」というプロジェクトの模型。
lights.png

2010年03月19日

◆植物と時代と

先月、黒い枝と白梅が夕日を背に浮かびあがる小さな梅園のそばを通りかかり、ゴッホが歌川広重作「名所江戸百景 亀戸梅屋鋪」を模写した「花咲く梅の木」(1887)を思いだした。でも、その冬の澄んだ夕空は、ゴッホの濃厚なマチエールよりも、広重の透明感により近かったような気がする。
東京の郊外の、もとは広かった梅園に今ではまばゆい大型のドラックストアが建ち、その裏手にひっそり十本ばかり梅が残っているのは、それでもなんともいえない武蔵野の風情だ。

先日ふたたび、やはり夕暮れ時にそのそばを通りかかると、梅は盛りを過ぎていたが、予期せぬことに、梅の根をなでるように一面にスミレが花開いていた。夕べに見るスミレの群生がこれほど幻想的なものだとは知らなかった。10年ほど前、北国の明るい夕べに、モスクワのエルミタージュ庭園で、名前の分からない青い花の茂みの写真を撮りつづけた夜があったが、その時と同じように、ふと、ロシア象徴主義のアレクサンドル・ブロークのスミレの詩を読みかえしたくなる。

先月、神代植物公園で、ヒスイカズラという勾玉のような形の青緑色の花を見た。
ヒスイカズラと、ある種の柳も、私にはなぜか、20世紀初頭ロシアの「銀の時代」の文化を連想させる。柳は、当時の「芸術世界」派の絵画に実際に描かれているし、その優美で繊細な線もあの時代の詩にふさわしい。熱帯植物のヒスイカズラはロシア「銀の時代」とはなんの関係もないけれど、世紀末的なその色彩と形状は、ビアズリーやミハイル・ヴルーベリの世界を彷彿させる。

ロシアの文学研究者を何人か日本に招いた際、かれらはしばしば、路傍の木や花の名前を尋ね、私や学生がそれを知らないことに心底驚いていた。「毎日見ている木の名前をなぜ知らないのか」と。
それから数年経った今も、私の植物の知識はほとんど増えていない、というか皆無に近いが、子供といつも同じ道を、それこそもう百回近く散歩するうちに、その時々の植物に以前より興味を覚えるようになった。(なにしろ、道はいつも同じだし、子供に話しかけようにも、いつしか眠ってしまうのだから。)

同じ道を毎日散歩していると、草木の勢いや日ざしの強さのかすかな違いを肌で感じるようになる。通学路や通勤時には感じたことのない感覚だ。
八月には、地元の小学校の裏の木陰で、昨日よりも濃い葉の色と強い日光を見上げた。一月には、変哲もない郊外の町のあちこちで、意外なほど多くの人が水仙を好んでいることを知った。
休業期間も終わり、幸福でもあるが時にはやや苦行のようでもあった、千日回峰行めいた日々は遠くなってしまったが、草木へのゆるやかな興味はその後も続いている。木や花に自分を重ねたロシアの詩人たち詩を読む時に、その感覚がいつか役立つだろうか。

gogh.jpgフィンセント・ファン・ゴッホ「花咲く梅の木」(1887)

2010年03月17日

◆ドミトリー・プリゴフ

学童保育から連れ立って帰る小学生たちが,道ばたで一枚の絵を囲んで,「この宇宙人の絵のなにが間違いでしょう」というなぞなぞをやっている。そのうちの一人が,「分かった! 宇宙人には手がないのに,手が描いてあるのが間違い!」と叫んでいたので,そのナンセンスさに感心していたら,自分も子供の時に,同級生にこのなぞなぞをされたことを,ふっと思いだした。答えは,「宇宙人はお母さんから生まれてくるわけではないのに,おへそが描いてあるのが間違い」というもの。宇宙人の絵を描いた同級生の顔が,あまりに嬉しそうだったので,その笑顔を時々思いだす。

以前,ロシアの現代作家ドミトリー・プリゴフの仕事について書きかけたものを,先週から少しまとめている。

プリゴフは,ソ連時代の新聞を素材にしたイラストや,ソ連の監視社会や絶対的な神を思わせる巨大な眼を描いたインスタレーション(空間立体作品)を制作し,ソ連の風俗を独自の視点で切りとった詩や散文によって,ロシア・ソ連の社会的状況をアイロニーたっぷりに描きあげてきた。

「権力者」としての「絶対的な作者」を否定するプリゴフは,つねに世界と一定の距離を保ちながら,場面にあわせて仮面や役割を変える道化のように,変幻自在に文体とテーマを変えて多様な作品を生みだしてきた。ソ連を礼賛するプリゴフ,サディストのプリゴフ,猫を愛撫しながら,猫に「ロシア」という言葉を言わせようとする狂信的な国家主義者のプリゴフ,水道の普及していないロシアの山小屋で人々がバケツ一杯の雨水で食器を洗うのを真似たパフォーマンスで,ロシアの生活を皮肉に描写してみせるプリゴフ…… プリゴフのオリジナリティは,独自の言葉や文体を否定して,つねに姿を変えていく点にある。ソ連体制のなかでつちかわれたプリゴフのこの創作態度は,自己の解体,テクストと内容の乖離という同時代のポストモダンと連動する試みでもあった。

もっとも,観客がどれかひとつのプリゴフの姿を見て,それがプリゴフの「本当の顔」だと思いこんでしまう危険はある。たとえば,連作詩「お母さん,覚えてる?」(1992)に収められた,子供が眠りにつく前の心地よい一瞬を叙情的に描いた一編は,プリゴフを「叙情詩人」であると「誤解」させるかもしれない。

 あの生活を思いだす――祖母と母と乳母がそばにいて
 静かな夕べが とろ火で煮た乳に浸されていた
 低くたれさがったビロードのランプシェードの下で
 みなテラスのテーブルについていた
 ぼくはとなりの小部屋で ゆったり体をのばして眠っていた
 夢をとおして聞こえてくるのは つぶやき ひそめき 歌う声
 だれかがそばにやってくる ぼくの顔の真上にかがみこむ
 翼のざわめき 生気のない肌触り
 遠ざかる足音 そしてぼくは飛んでいく
 何処かへ

あるいは,「わたしのロシア」(1990)所収の,古き良きロシアを詠った一節は,感傷的な郷土愛に満ちているようにみえる。

 わたしは覚えている ロシアのあの日は
 五月だった 庭にライラックが咲いていた
 空気は耐えがたいほど青く……
                 
だが,プリゴフの作品は,虚構の世界,演じられた態度を,本物だと思いこませてしまう危険性をあえて引き受けることで,人がなにかをたやすく信じてしまうプロセスを露呈している。


--こんな感じでまとめている。疲労と頭痛と肩こりでまったく食欲もなく,息子も機嫌が悪くて1メートルでも離れると泣いてしまう一日だったが,日に数行ずつでも書き足していければと思う。

2010年03月12日

◆クレーの絵本

日が長くなってきた。
仕事の後、急いで帰宅し、夕食の準備を始める前に、散歩の好きな息子を連れてすこし外を歩く。この時間帯、保育園や学童保育から帰る途中の母親と子供たちが、笑いのさざ波となって、にぎやかに通りすぎていく。
慌ただしくてほとんど空っぽになってしまった野菜室の惨状を改善するために、途中の八百屋で、めずらしいという国産のオレンジや、菜の花、千葉産の椎茸やトマトを買う。
さくら草だけを植えた庭、菜の花だけを植えた庭など、近所にいくつか個性的な庭があることに気づく。河津桜が散りはじめ、満開の沈丁花が重みを増している。あちこちの庭でパンジーが競うように顔を上げている。いつのまにか、もうすっかり春が深まっている。

取り寄せたまま未読だった谷川俊太郎の『クレーの絵本』をめくる。クレーの40点の絵と、谷川俊太郎の14編の詩を収めた美しい詩画集。
詩は、すでにどこかで読んだものばかりだったが、詩と絵の音楽的な調和や、パウル・クレーの絵のきらめきをあらためて楽しむ。
最後のページに掲載されていた、「母と子」という1938年の水彩画に癒される。

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谷川俊太郎 『クレーの絵本』(講談社、1995年)

2010年03月09日

◆子どもたちの遺言

育児休業から復帰して2週間。大学の仕事と育児の両立は予想よりずっと厳しく、体の芯から痛めつけられたような疲れと悪寒で、もう2度も寝込んでしまう。

昼は手が離せず、夜もいまだに5回は目を覚ます1歳児の世話をしながら、早朝に自分の仕事をしていた休業中の生活は、仕事だけをしていた頃よりハードたったので、復帰後の生活がこんなに大変とは思っていなかった。4月に授業と教務委員が始まったら体がもつのか、夜中にたびたび子供を寝かしつけながら、不安で目が冴えてしまう。育児短時間勤務制度はあっても、仕事の絶対量は減らないので、自宅への持ち帰りの仕事が増えるだけで、解決にはならない。

復職前は、復帰後もなるべく子供に愛情と時間を注ぎたいと願っていたが、復職後はそんな余裕はなく、せめて明朝までに体調が回復して起き上がって仕事に行けますようにというのが唯一の願い、というワーキングマザーが、世の中にどれほどいるのだろう。

今日書店に届いた何冊かの本をめくる。谷川俊太郎の詩に田淵章三が子供たちの写真を添えた、『子どもたちの遺言』を読む。

当初、谷川俊太郎は作者である自分が子供たちに向かって遺言を書くという発想で詩を書こうとしたが、「まだ死からはるかに遠い子どもが大人に向かって遺言するほうが、この時代ではずっと切実ではないか」と思って、子どもの言葉で死と生を語ることにした。生まれたての子どもから成人式を迎える子どもまで、12の詩が収められている。

息子のために買った本ではないのに、子供たちの写真が面白いのか、息子も寄ってきて本をめくりはじめたので、「邪魔しないで」好きなように触らせてみた。というのも、生まれたての子どもの気持ちを綴ったこんな詩が載っていたから。


「生まれたよ ぼく」
            
生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか
だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい
そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい

kodomo.jpg

谷川俊太郎・田淵章三 『子どもたちの遺言』(佼成出版社、2009年)

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