◆ロシアの北の湖で詩人は
デビュー作『父,帰る(Возвращение)』で,昨年ヴェネツィア映画祭金獅子賞を取ったアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督のレクチャーを昨夜聴きに行った。映画の舞台となったロシア北部の青い静謐な風景は,身体に詰まった熱い重い氷を溶かしてくれるようだ。
毎年5月から9月にかけて,モスクワの詩人ミハイル・スホーチンはこのロシア北部の小さな山荘に移り住み,養蜂をしながら詩を書いて,ラリースカという夢見がちで才能溢れる小さな娘を育てている。彼が作夏見せてくれたロシア北部の風景写真や,彼の詩や,外国の現代詩に興味を持つロシアの詩人たちを思い出しながら,ずっと前から頼まれていた日本の現代詩の翻訳を始めてみた。ひとつひとつの言葉を手さぐりで選び,情景を思い浮かべながら日本語の詩をロシア語に直していくのが,これほど心安らぐ沈黙に満ちた幸せな時間だとは知らなかった。まるでロシア北部の誰もいない湖に浮かぶボートで,目を閉じて横たわっているような静寂が訪れる。そして嬉しいのは,日本の現代詩に興味を持っている友人のロシア詩人たちが,できあがった翻訳を読んでくれると分かっていることだ。湖の岸辺に立ち手を振ってくれているとまでは言わないにしても完成を待ってくれている友人たちのところに,早く詩の束を抱えて飛んでいきたいと思う。
数年越しの約束をはたすきっかけとなったのは,今春モスクワで,チェコの若い友人たちと再会したことだった。彼らもロシア文学研究者で,チェコの現代詩をロシア語に直訳し,スホーチンらロシアの詩人と話しあいながら,詩として美しい言葉になるよう手を加えていく作業をしていた。もちろん彼らはロシア文学のチェコ語訳にもとり組んでいて,現代ロシア文学の作品を出版してくれる出版社がないことを嘆く間も惜しんで,自分たちで出版社を作ってしまった。といっても,限定50部のコピー本だったりするのだが,1960年代のアンダーグラウンドの詩人たちや,レオニード・チシコフなど現代の作家の作品を次々と訳して「出版」していくバイタリティーには頭が下がった。同じ頃,イギリスのロシア文学研究者アヴリール・パイマンが作った私家版の『アフマートワ詩集』の英訳を見たのも衝撃だった。パイマンのアフマートワ訳が素晴らしいとは以前から聞いていたが,それが私家版だったとは知らなかった。パイマンは,ロシア人画家キリル・ソコロフと結婚するためにイギリスの邸宅での生活を捨て,ソ連時代の共同アパートというとりわけ劣悪な住環境で暮らしながら,ロシア文学研究に生涯を捧げた情熱の人である。今春ロシアで初めてパイマンと出会い,激動の人生と旺盛な活動から想像していたのとは違う,控えめで温厚な人柄に心打たれた。
日本の現代詩のロシア語訳がたまったら,作者の許可を得て雑誌や本で発表する前に,いずれ美しい1冊の私家版を編んでみたい。
